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ブログお引っ越しします。 

2012.04.01 Sun
こんにちは。伊藤麻希です。
このたび、ブログをお引っ越ししようと思います。
FC2から、Bloggerにしようと思います。

以前のFC2の住所は
http://ikam011.blog91.fc2.com/
新しいBloggerの住所は
http://makinissi.blogspot.jp/
です。タイトルは“makinissi”でかわりませんので、まぁ検索すれば引っかかるはずです。

いまTwitterやFacebookと連動できるか試してたので、しばらく更新がおかしなことになってますが、
よろしくお願いします。
私自身ほぼ存在を忘れかけていたmixiとの連動はできなさそうですので、、どうしましょ。


というわけで、
新年度です、今後ともよろしくおねがいいたします。



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映画の、

2012.03.21 Wed
ピナの3Dを観た。
そのあとネットとかで評判を見たら、すこぶる好評なのです。
まじか。

いやー、どうなの?というのが正直な感想です。
観終わったあと3Dに納得がいかなくて、これはもう残念としか言い様がない、非常に頭が痛くなるのです、
頭が視覚映像を処理しきれなくて視点が定まらない上に、動いている人間への3D処理が荒すぎてそれがまたストレス。私は。
ヴェンダースは3Dで作品を制作することに意義を見出していたというけれど、はっきり言ってドキュメンタリーちっくなものにまだ3D技術が追いついていないし、
ヴェンダースが風景や街を撮るのが得意だとしたら、奥行きとしての3Dは確かに成功していたけれど、舞台空間を再現というかあれは逆に嘘臭くてちゃちくてかなわない。
黒舞台の光の美しさは、どうしても映像では再現出来ないものなのだよ、こりゃもうどうしようもない。
舞台で人を観るということはもはや気配を感じることと同じくらい繊細なことで、断じて、ただ在るから見える、ということではない。だからこそ舞台の美しさがあるし、それとは違うところに確かに映画の面白さはあるのだから。
友人とは、3Dが演出と釣り合っていたのはやっぱりアバターがまだ限界なのだという結論に。

初3Dがピナっていうチョイスが間違ってたのかも。
3Dを使う意義があるのか、そしてその意義に適う技術が使えるのか、適えるに値する技術が開発されているのか、
それが十分じゃないのに作ってもしょうがないでしょう、って思ったんだけどなぁ。

映像は確かに綺麗だった。
風景の撮り方とかすごく綺麗。
まぁメガネが黒いものだから、全体的にくすんでいるけどね。

つまりピナの映画をすごく楽しみにしていたということと、さてじゃあなんで3Dだったのかって話です。
頭が痛いのくらい我慢すりゃいいじゃない、と言う人も居るだろうか、
だとしたらそれ、今までどういう映画を観て来た/どういう風に映画を観て来た人なのかって。
だって映画を観ている時に感じること全てが映画の時間に間違いないのだよ。


映画って、もっとこう、面白いとおもうことたくさんあるのに。

ものすごくたくさんの細切れのショットが見る人の感情や欲求を途切れさせないように糸できちんとつながれている、つまり演出(脚本や編集)がされていて始めて一つの時間が成立する。その時間に心底酔えるから大きなスクリーンに意識がのめり込めて、いろんな感情や感情移入がある。主観でも客観でもいい。
例えばあれだよ、糸に通すものはなんであれ、繋がれた一つづつの素材が一つの円環になって、始めてその"ネックレス"が美しいとか醜いとか面白いとか、そういう感情が生まれるのです、
つまり通すものが真珠だろうとビーズだろうとゴミだろうと、"ネックレス"が美しくも醜くもなりえる、
むしろその糸を、繋ぎ方の意図を感じたいのだよ、と思うのです。
そういう風に観て素晴らしい作品は劇映画にもドキュメンタリーにもたぶん、たくさんあるし、そういう映画の見方が好きなのです、私は。


で、何が言いたいかって、
その後日、同期の修了制作の映画の上映観たのです。
そこで上映された作品たちの方が、糸が見えるから好きなのです。よっぽど映画として素敵だと思えたんです。
どれだけ細い糸でも、きちんと糸があることが分かる。
良い上映会だった。


私は映画を作れないけれど、こいつにはこれからも映画を作って欲しい、と思えるものを観れることは、観客として友達として最高に幸せだと思う。
まぁ大変だろうけどね。笑


というわけで、懲りずにフラメンコ・フラメンコを観てみようかなと思う。
これを全部話してもなお人に勧められたから。

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4

2012.03.06 Tue
その前に鳴った音が消えるから次の音を聴くことができ、それによりハーモニーやメロディが生まれる、
というのは受け売りだけれど、身体の動きも同じく、一つ前の運動が(解放)に向かうことで次の動きが生まれる。
動きは、一つ一つの運動が分裂しているわけではなく、一つ前の運動は次の運動にかならず何らかの影響を与える、
ということを考えると、音もまた、
一つ前に鳴った音に次の音は影響されるんだろうな。
運動は必ず連続であって、止まることはない。というか、止まるという運動も。

音楽はタイムラインに沿って、もしくは楽譜がそうであるように、或る一方方向に進んでいるように思われがちだが、聴覚の空間に響いた音は、そういう単線で表せるものでもない、
というと説明が足りないのだけど、
少なくとも、音が鳴る原因となる場所から音が伝播してくるような、岸に波がやってくるような、自分自身に"届く"いうようなかんじ、そういう自我を起点とするような発想では到底追いつけないんじゃないかと、
つまり音楽が"届く"というのはただの素敵イメージであってうそくさいのです、音楽を特権化しすぎ。
人が何を音楽として"聴く"かどうかが、音楽がそこにあるのかどうかを決めるんだろう、と。
なんというか、"聴く"ことは矢印(線)じゃなくて拡がりなのです、いつも。
人の耳は、案外いろんなものを垂れ流しに聞いていて、ただその中で想像力(imagination)のフィルターに引っかかるものを愛でるのでしょう、

小さい頃家にピアノがあって、たまーに適当に弾いていたけれど、
なんていうか、適当に弾いた曲が天才的な作曲だったりしないものかなぁと、楽譜に書いてみたりしてちょっとノリノリで弾くことってあると思う(たぶん弾けない奴の方がやる)。
あの時は当然、世の中にどういう楽曲があるのかとか、作曲の方法も音についての知識も一切なく弾いているわけだけど、
じゃあそれはクルタークの『ピアノのための《遊び》』という曲(CD欲しい)と何が違うのかってね。
ぜんぜん違うに決まってんじゃん!、って簡単に言えちゃうのは残念よね。


お腹すいたな。
読書で腹は満たされんわな。
夢や霞を喰ってるのか?と母親によく食生活を心配されるけど、さっき夢や霞に近い冷凍のそら豆を食べたので、お腹すいたわ

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「理解」

2012.02.27 Mon
私が大学に入ってショックを受けたことの一つに、読んでも意味がわからない本と出会ったことが挙げられる。
「読んでも意味がわからない」本や文章は意外とありふれていて、そんなに珍しいものでもない。
文字が書いてある、その文字は、見慣れた日本語。なのに、意味がわからない。字面をただただ眺めているだけになってしまう。
私だって、日本語を使って話したり文字を書いたり考えたりしているのに、そこに書いてある文章の意味が全くわからないというのは、結構ショックなものだ。

ということを経験したことのある人って、どれくらいいるものだろうか。
だいたいみんな経験したことがあるのかしら。

物理、数学、化学など、基本的に理数系は苦手です。
そして割と本気で読んでたくせに、実は思想・哲学についても結構意味が分からない。
面白いと思う、そしてわかった振りをすることはできる、しかしわかってない、ことを理解している。
端的にいえば、自分が面白いと思ったことを他人に説明することができない。
まぁ「わかった」ということも実はどうでもよくて、思想・哲学にしろ物理学にしろなんでも「学」とつくものは世界を理解しようとするための構築された一つのツールであり言語であり、ルールであるのだから、世界をどのように理解するのか、という点に関しては、別に宗教ともかわらない。
宗教が悪いとは思わない、普く学問が悪いとも思わない、ただひたすらに“世界”を理解しようとすることに人は暇がない、ということだけは痛感する。面白い。

だけど私が思想・哲学に関して面白いと思っているのは、あれは紙上に文字という火で意味をあぶり出す芸術だと思うからだ。いや、思想より哲学のほうがよりそう思う。
哲学において、正確さは必要ない、というかむしろ正確だと判断できる人間はいない。
人間の思考という分野において、最も先端にあるのが哲学であり、それは追従する人々に与えられた意味ではなく、その先に投げかけられた投網みたいなもんだ。
楽しいんだよ、思想や哲学系の本って。読んでるとわくわくする。


ということをぼーっと考えていたのは、円城塔の『Self-Reference ENGINE』という小説を読んでいるからなのだけど、この本がまぁ難しい。
まず、時空が歪んでしまっていることが物語のスタートであって、それが理解に苦しむ。
各々の人間の時間の矢印がリゾーム的(あぁ、使い方だ正しいかどうかわからないけれど、この言葉がぴったりだ)に入り組んでいるという話。

トポロジーについて読んだことがあるだろうか、この物語はあの難解さに似ている。
トポロジーについて、人はどれだけの理解があるだろうか、だって実際に人が生きているのは3次元の空間なのだから、4次元といわれてもそれは想像でしかなく(失礼、”数字”でしかなく。文系人間はこれだからいかんのです)、それは文字(数字)の世界でしか、理解することでしか共立しない世界。
似ている、トポロジーの授業の時に味わった理解不能の絶望感に似ているのだ、この本を読んでいると!

時間という概念と、物理的・数学的な時間というものの解釈が入り乱れて、小説になっている!恐ろしや。
なので、心から楽しめない。私の頭の足りなさ加減はとても残念だ。だけど、なぜか引き込まれる。
それは少なくとも円城塔という人がやたら説明好きな面倒臭い人間だろうな、という想像してにやにやできるだけ。
まぁ700円で買った文庫本は凡人にとってそんなものでしょう、最後まで読み切れる自信がない。

理解というのは、すなわち世界の一側面ないしは全体を作る、構築するということであり、それ以上でもそれ以下でもない。


じゃあその「理解=物事の道理や筋道が正しくわかること。意味・内容をのみこむこと。」に、人間の感情はどれくらい入り込むものなのだろうか。
感情というか、情動、物語の類。

と、思ったけど、面倒くさいから考えるのやめておこう。


ひたすら文字が書きたくなったのでたらたら書いてみた。

最近はもっぱらインプットばかり。
今月はひどいわ、舞台を3つ観た上に、映画を劇場で3本、本も何冊か買ってしまったし。
それでなくてもバイトでたくさん音楽も聴けるし、我ながらなんて道楽なんだと…

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ダンス

2012.02.17 Fri
勅使川原さんのダンスを見た。
フランチェスコ・トリスターノの演奏。


私はやっぱり、勅使川原さんのダンスが好きなのだ。

どうして、こんなに身体が動いて、動きが多様で、鋭くてブレがなくて迷いがなくて、無秩序なようで何かとてつもない引力が感じられて、
どうして、がたくさんあって、
それなのに観ているとどうしてを考える頭すら結局身体、ごと引き込まれてしまって、
その先に何かを期待するわけでも、少し前を思い出すでもなく、ただこちらが"見る"ということが、しかもその"見る"という"今"が次々やってくること、
哲学や思想のくそもないよ、本当にそう感じられるのだもの。
観る、見るということが作品に対する参加であることをこれほど感じられるだろうか。

フランチェスコ・トリスターノの演奏もかなり良かった。
残響、間合い、そういうのをきちんと図れる人は好きだ。
丁寧で、繊細である強さ。
穏やかな小川の流れ、みたいな人なんだと思う、そういう音だった。

音もダンスも、どんな表現でも、その人の考えていることや人間性は恐ろしいほどよく伝わる。
そして抽象的な表現であるほど尚更。
面白いもので。


勅使川原さんのダンスは私が今まで観てきたどんなダンスより本当にどきどきするのです。
いやどきどきとかおしゃれに言ってるな、多分口開けてぼーっと見てるだけだけど。
初めて観たときもそうだし、やっぱり今でもそうだ。

スポーツの美しさとか、お祭りを見ている時の高揚感とか、
そうだ、観客様をやっているというより、見物に近い。


そして何よりもダンスだと思う、
というか、今あるダンスが駄目だから、とかそんな陳腐な理由じゃなくて、そういう私がダンスについて考えている事がどれだけ下らないことかって観てるだけで圧倒されるのです。

あれは、ダンス以外の何物でもない。
もし、あれを否定する人が居るならば、全力でその理由に耳を傾けたいと思っているよ。



憧れていた、といえばそうだ、しかもかなり本気で。
本当にちっぽけな自分が精一杯の背伸びをしていたのだもの。
だから、勅使川原さんに自分の修士制作が作品になってないと言われても、その通りだとしか言えなかった、
だってあの動きはどうしたら手に入れられるかって、そればっかり考えてたしそれ位しか手に負えられなかった。
時間が足りないのだ、全然。
作品になる為にはもっと膨大な時間がかかることだって、痛いほど分かってるのだから。


圧倒的にダンス、を目の前にして、
涙が止まらなかった、

そりゃ自分のやってきたこと思い出したりして、感情的なものが絡んでいない、といえば嘘になる、
でも不甲斐ないとか、悔しいとか、頑張った自分とか、そんなくそみたいな理由じゃなくて、
ダンスってこんなにも豊かで、愛おしくて、ただそこにある身体が動いていることにここまで惹きつけられる不思議が、やっぱりそこにあったことが嬉しくて仕方なかったのです。


やっぱり、ダンス、好きなのだよね。
一番大切なもの、一番大切な感情を全て賭けて、否定され続けてもそれでもぶつかっていくことをさせてくれた勅使川原さんには本当に感謝と尊敬をしているし、
だから駄目と言われても、どれだけ否定されても、またやろう、と思えるのだと思う。
不思議なもので。


って、やっぱり勅使川原さんのダンスをまっさらな状態で見れているわけじゃないのだよ最早、


だけどだからって語るべき感想もあのダンスにはないんだよね、どんな言葉をもってしても身体の方が雄弁で、言葉にするだけでむしろ"見た"ものの印象が濁ってしまうから。

"見た"、それしかないでしょう。
それは、面白かった、というよりむしろ、楽しかった。
だって見物だもの。



さあ、私には何ができるだろうか、とか、考えてみるのです。

とりあえず、稽古を再開しようかと。。

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